diary/Kojima

・「社会教育」推進委員

この春から、地区の「社会教育推進委員」なる仕事を押し付け^H^H 拝命して、先月末あたりから毎週「研修会」という名目の集会があり、「差別を無くしましょう」的なビデオ教材2本を見て、同和教育専門員の「講話」を聞いてきたのだけれど、どうも「コレジャナイ」的な違和感が拭えなかった。

元々は、いわゆる「同和問題」を解消するために、もう学校を卒業している社会人を対象に「部落差別」について知ってもらうために70年代ごろから始まった活動らしいけど、次第に同和問題から対象範囲を広げて、「イジメ」や「介護」「住民のつながり」といった話まで含めるようになった結果、「社会教育」という名称になってきたらしい。

その一方、やってること自体は昔から変ってなくて、問題提議的なビデオ教材を見て、それについて住民同士であれこれディスカッションする、というスタイル。

「社会教育推進委員」というのは、この場を指導する役で、研修会でも「どうやって参加者を増やすか」とか、「どうやって参加者の意見を引き出すか」というノウハウをあれこれ教えられた。

教材のビデオも、ストーリーとかはウソくさいもののそれなりにまとまっていて議論のきっかけにはなるし、見た感想も「それはそうなんだけどね」的な感じでまとまりはする のだけれど、どうしても「コレジャナイ」感が拭えない。

それが何故なのかここしばらく考えていたのだけれど、一つ気づいたのは、「社会教育」やその元となった「同和教育」という考え方自体が「啓蒙主義」的で、「無知な差別者に同和問題の意味や事実を教えてやれば正しい方向に進むはずだ」という考え方が背後に潜んでいること。さらにその奥には「理性主義」とか「進歩主義」みたいな近代社会の共通理念があるのだけれど、同和教育が扱っていた「部落差別」という狭い問題ではなく、社会教育として「差別」一般の問題を扱おうとする時、果してそれは「理性」の枠だけで解決する問題なのだろうか?

今日の「講話」でも、ヘイト・スピーチやサッカーの"JAPANESE ONLY"の垂れ幕、都議会の下品なヤジといった時事的な話題が取りあげられたのだけれど、この手の「差別」行為って、相手を落しめることで優越感にひたったり、自分たちの連帯意識を高めたりするものであって、理性的には「いけないこと」だと分っていても、ついやってしまう「無意識の情動」とでも言うべきものではなかろうか?

どうも私が研修会とかで感じていた「コレジャナイ」感というのは、差別の問題をいくら「理性」に語りかけても、「それは確かにそうだけど」で停ってしまい、そういう行動を生み出す心の闇、「無意識の情動」には届かないだろう、ということだった気がする。

もっとも、「ではその無意識の情動なるものに働きかけるにはどうすればいいのか」と問われると、フロイトやユングの心理学を使って自らの心の闇に光をあてるなり、禅のように瞑想の中で自らの心に向きあったりするしかなくて、ビデオ教材や研修会といった近代的な「教育」のスタイルではとうてい不可能としか言えそうにない。

「人は全て平等で、他人を差別してはいけません」ということを「理性」の世界でいくら語ったところで、それは各自の心の闇には届かないし、それを「理性」の力で無理矢理実現しようとしても、いわゆる「悪平等」なディストピアにしかならないだろう。だからといって、全ての人が「柳は緑、花は紅」的な認識に達することも不可能だし、その必要もないだろう。

ではなぜ今さら「社会教育」を推進しなければならないのか、と言うと、多分にかっての「同和教育」の惰性や既得権益の維持ということに収斂するのだろうな。教材ビデオを作っているのは「兵庫県・公益財団法人 兵庫県人権啓発協会」なる組織で「社会教育推進委員」という形でこの既得権益の一部を受ける(謝礼は3000円/年、源泉徴収されて2694円 ;-)ことになったからには、その責務を負わされるというわけか(苦笑

# 嫌がらせのように、確定申告の際にこの源泉徴収分も取り返してやろうかしらん :-P

どうやら私が今まで感じていた「違和感」「コレジャナイ」感というのは、このあたりに起因するものだったようだなぁ。。


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Last-modified: 2021-12-17 (金) 16:35:42